引っ越し前の品物整理のご依頼で伺いました。
綺麗な花々の紋様が施された「安藤七宝」 の円形の小箱(宝石箱)や、新潟県「玉川堂」の銅製花瓶の他、朱塗りの漆器や蒔絵の硯箱などをお譲り頂きました。
部屋を暖かくしてお待ち頂き、ご親切なお気遣いに感謝いたします。
ありがとうございました。
本日は関東でも沿岸部や八王子方面などでは、週末の大雪の影響で通行止めが続いてたようですが、買取りに伺った地域は予想以上に雪が解けており助かりました。
なお、工房の歴史を下記に記載させて頂きます。
【安藤七宝店】
明治 13年 煙管商村田屋重兵衛、大日本七宝製造会社の後を継ぎ七宝焼の製作販売を創める。
安藤七宝店、名古屋市にてこれより創業。
尾張七宝の元祖梶常吉翁の孫佐太郎を工場長として招聘する。
23年 東京市京橋区銀座に支店開設。
33年 宮内省ご用達となる。パリ万国博覧会にて金牌を受賞。
34年 イギリス、グラスゴー万国博覧会にて金牌を受賞。
35年 ロシア万国博覧会にて名誉大賞を受賞。
37年 アメリカ、セントルイス万国博覧会にて名誉大牌を受賞。
本店、工場を現在地(当時、矢場町5の切)に新築移転する。
39年 ミラノ万国博覧会にてグランプリを受賞。
40年 東京支店を元数寄屋町4丁目1(現在地)に移転する。
東京勧業博覧会で名誉銀牌、一等賞牌等、受賞。
43年 名古屋開府300年記念古美術展覧会にて一等賞金牌を受賞。
大正 4年 大正天皇御料車の七宝鳳凰欄間飾板を製作納入する。
6年 裕仁親王の結婚記念に太鼓型時計を受注製作。
9年 ニューヨークに出張所開設。
13年 関東大震災にて東京支店が灰燼に帰す。(木造2階建にて急遽再建)
14年 合名会社安藤七宝店に改組。安藤重兵衛が代表社員となる。
昭和 3年 鎚起七宝が創作される。
5年 東京支店が京橋区銀座5丁目4番地に再建完成。
10年 皇太子明仁誕生祝に七宝焼兵庫鎖長覆輪平鞘御太刀拵を受注製作、名古屋市より献上される。
14年 土方直治郎氏との共同出資にて神戸市北長狭通りに販売店開設。
18年 株式会社日本七宝技術保存会の発起人総代に安藤重兵衛が推挙される。
20年 名古屋大空襲にて本店建物、商品が焼失。
22年 名古屋本店、工場を再建する。従業員15名余、双胎七宝を創作する。
23年 株式会社安藤七宝店に改組資本金300万円。安藤重兵衛初代社長となる。
25年 名古屋市昭和区東郊通4-4に第2工場開設。操業開始。
26年 久保寺良吉が第2代社長となる。
27年 文化財保護委員会より七宝技術記録作成を委嘱される。
29年 安藤武四郎が第3代社長となる。
32年 文化財保護委員会が七宝焼を無形文化財に選定する。
34年 皇太子明仁の結婚を機に、宮内庁注文にて舞楽青海波紋大花瓶を製作。
43年 新宮殿用七宝十二稜鏡飾物を宮内庁より注文受ける。
44年 第60回伊勢神宮遷宮造営に際し七宝据玉 を作成する。
46年 日本中央競馬会中京競馬場より高松宮杯(紋章入)を受注製作現在に至る。
48年 日光東照宮坂下門の七宝金具補修工事を受注。
49年 迎賓館備品用に七宝旭光釉梅文彫付無地花瓶 を寄付する。
52年 第一回全国伝統的工芸品展にて名古屋市長賞を受賞。
55年 会社創業100周年を迎え100年誌を刊行する。
58年 安藤重良が第4代社長となる。
平成 元年 本店店舗内部を改装する。工場を御器所工場に統一する。
銀座七宝ビル完成、東京支店新装オープン。
5年 第61回伊勢神宮遷宮造営に際し七宝据玉 を作成する。
7年 尾張七宝が国の伝統的工芸品の指定を受ける。
10年 半田石橋組山車「青龍車」七宝四本柱復元修理(平成7年着工)完成。
12年 会社創業120周年を迎える。
以上、資料引用
【玉川堂】
世界有数の金属加工産地、燕。
そのルーツは、江戸時代初期、和釘づくりが始まったことに端を発します。
江戸時代後期、仙台の渡り職人が燕に鎚起銅器の製法 を伝え、弊堂の祖、玉川覚兵衛によって受け継がれました。
燕に銅器製造が発展した背景には、近郊の弥彦山から優良な銅が産出され、素材の入手が容易であったためです。
日常銅器(鍋、釜、薬罐)の製造から、漸次工芸品的要素を加え、明治六年(西暦1873年)、 日本が初めて参加したウィーン万国博覧会に出品し、戦前までに約三十回内外博覧会に出品受賞しました。
明治二十七年(西暦1894年)には明治天皇御大婚二十五周年奉祝に一輪花瓶を献上し、皇室の御慶 事には玉川堂製品の献上が習わしとなっています。
現在、新潟県より「新潟県無形文化財」、文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」、 経済産業大臣(旧通商産業大臣)より「伝統的工芸品」に指定され、国内唯一の鎚起銅器産地の発展に努力しています。
以上、資料引用